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Festival Fisel 2009にて [そういえば僕は南仏に住んでいたんだっけ]

 ジャン=フィリップに引かれて、フランスはブルターニュRostrenen市のFestival Fisel2009に行って来た。音楽と踊りのフェスティヴァルである。フランス語で「ハサミ」と呼ばれるダンスで名が知られている。

 http://www.fiselblog.org/


 踊りは伝統的なものだが、音楽の方は伝統的なものから、伝統に基づきアレンジした現代的なものまで多岐に渡っている。正直、そのレベルの高さは国際クラスである。

 

 ここで、僕はサブカルチャーとハイカルチャーの問題について考えてしまった。

 

 僕らが大学生だった頃、ワールド・ミュージックが流行って、世界中のいろいろな民族(=伝統)音楽が紹介された。盛り上がる僕に、一緒にバンドをやっていた松本という友人はこう言った。

 

「フランスのMalicorneが素晴らしいのは認めるよ。でも、民族音楽って言ったってさ、田舎のジッチャン、バッチャンが歌っている民謡程度のものだって多いわけだろ。そりゃあ、独特な音階とか使っているから、一見刺激的だけど、本当に素晴らしいものかどうかは良く見極めなければいけないんじゃないの?」

 

 少々言葉は乱暴だが、彼の言っていることは正しい。伝統的な技芸がすべて素晴らしいわけではなく、それが芸術として洗練されるためには、ヒマとカネがある程度費やされなければならないということだ。これを単純な二項対立に整理するとサブカルチャー=田舎臭い技芸とハイカルチャー=洗練された芸術ということになる。単純な言い方をすれば、歴史的に長い間、このハイカルチャーの殆どがヒマとカネを持て余している支配階級の専有物であったということになる。

 

 まぁ、アドルノなんて人は資本主義によってハイカルチャーがサブカルチャーに堕落していることを嘆いた人なわけだが、事態はそんなに単純ではない。何故なら、例えば、今の日本の漫画やアニメなど、洗練されたサブカルチャーというのもあるからである。モダン文明が到来し、多くの人がヒマとカネを持てるようになり、それに合わせてカルチャーのあり方も変容したということだ。

 

 で、ブルターニュの音楽とダンスだが、もともとは正真正銘のサブカルチャーである。何よりブルターニュの民衆が祭の時に踊っていたダンスとそれのための音楽だからである。

 

 だから、本来のブルターニュ音楽は単調である。基本的には同じリズムで決まったメロディを延々と繰り返していく。あくまでも主役は踊りなわけで、音楽はそれの伴奏にすぎない。複雑な演奏をしてステップが乱すことがあってはならないのだ。正直、音楽だけを録音してそれを聞いても、単調すぎてつまらないと感じる人も多いだろう。あくまでも踊りと合わせて聞くものだし、更には実際に踊ってみて始めてその面白さが実感できるのだ。

 

 というわけで、ブルターニュの歌とダンスは明らかにサブカルチャー=民衆文化にその起源を持つわけであるが、今もなおサブカルチャーのままであり続けているかというとそうではない。このFestivalFisel2009年現在で37回目ということだが、ということは40年ほど前に伝統文化を素材としてフェスティヴァルを立ち上げようという動きがあったということになる。つまりカルチャーを土着の状態から切り離し、舞台に上げ、ヒマとカネをかけて洗練させようという努力があったということだ。

 

 更に、このフェスティヴァルは、決して過去の伝統文化を保存しているだけではなく、そうような伝統的な音楽に基づき現代楽曲にアレンジした音楽も盛んに演奏されていた。ジャズ風なアレンジ、現代音楽の試み、世界の他の地域の民族音楽との融合など、それはまさに世界でもトップクラスの面白さである。

 

 彼の地では、サブカルチャーでもあり、ハイカルチャーでもあり、そんな至福の時が流れていた。そして、こんなことが日本にもあったらよいな、と思った。

 

 かつて「ヨーロッパはキリスト教があるからハイカルチャーが成り立つけど、日本にはサブカルチャーしかないから」と言った国文学専門の友人がいた。これは間違いである。例えば、現在ハイカルチャーの典型例と見なされる西洋のクラシック音楽でさえ、祭り上げられヘゲモニーを確立するのは19世紀以降のことなのだし、また、庶民を完全に無視して玄人である上流武士のためだけにヒマとカネをつぎ込まれ洗練されていった日本の能以上にハイカルチャーな芸術は世界的に見てもまず無いと言って良いだろう。

 

 芸術と現代生活、そんなことを考えた。特に、日本における芸術のあり方について考えた。そして日本においてもこのようなフェスティヴァルが出来たら、と。


ブルターニュ写真館/Festival Fisel [そういえば僕は南仏に住んでいたんだっけ]

フランスはブルターニュRostrenen市で開催された音楽とダンスの祭、
Festival Fiselに行ってきました。
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これが古城、今は高校らしい
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で、夜の古城
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フェスティヴァル会場、準備中
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昼間は他の会場で、いろいろな催しが
ここは「ボンバルド」というカフェの前
演奏したり、
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踊ったり
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夜の会場
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水面に映る古城
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最後に、Rostrenenの夕日をどうぞ
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ブルターニュ紀行1/人と動物 [そういえば僕は南仏に住んでいたんだっけ]

 ジャン=フィリップのおかげで、ブルターニュに行ってきた。

 ところで、いつの間にやらジャン=フィリップは僕がブログをやっているのを知っている。そして「トモオキがブログに今回のブルターニュ滞在について何て書くか楽しみだな。まぁ、オレは読めないのだけど」などと言う。どこから漏れたのだろうか?さんざんお世話になった以上、書かないわけにはいかないし、ブツブツ...

  今回は、Rostrenenを中心に内陸部をかなり回った。正直、「かなりど田舎だな」という印象を持った。主要産業は農業、それも畜産である。特に豚は人の数より多いのだそうだ。人々は動物とともに暮らしている。人は動物を必要としてきたし、動物も人を必要としてきた、と友人のオリエは言う。

 日本で動物の権利論をやっている友人のことを思った。

  フランスの場合、ドアを開けたら直ぐに家の中である。玄関で靴を脱ぐというようなことはなく、日本でいう「土間」が一階のすべてを占め、そこは既に生活空間なのだ。

  ブルターニュを代表するラジオ局RKBのアナウンサー、ジャン=ピエールのうちにいくと、犬が4匹駆けてくる。彼らは人間の行くところ、どこでも出入り自由だ。テーブルに座ってご飯を食べていると、股の間からひょっこり顔を出し、何かをくれと催促する。グラムシ研究者にしてペット・トレーナーの川上さんが聞いたら、泣いて喜びそうな環境だ。

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 だからと言って彼らが動物愛護者というわけでは断じてない。かつては農業を営んでいたジャン=ピエールは今でも大きな牧場を持っていて、「今は別に金儲けのわけにやっているわけじゃないんだけどね」と言いながら、牛や馬を飼っている。そしてその牛の殆どは屠殺され人間に食べられる運命にあるのだ。

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 口にするのは肉だけではない。動物達の乳も、そのままであるいはバターやチーズに形を変えて大量に消費されている。南仏のオリーヴオイルをベースにした料理に親しんでいる僕としては、大量の肉料理もともかく、そのソースに使われるバターにウッとなる。困ったことにブルターニュのバターはおいしいのだ。

  ミュージシャンのマルト・ヴァサロは菜食者と聞いていたので、彼女と一緒いればさっぱりしたものを食べられると期待していた。ところが、彼女は肉は口にしないものの、朝からすごい量のチーズを口に運ぶ。チーズは決して嫌いではないのだが、連日の酒と肉食文化でやられている僕は、マルトの食べっぷりを見て、何故だかチーズを口にする勇気を無くしてしまった。

  マルトは、他の地域ではオリーヴとか向日葵とか油が大量にとれる作物があるかもしれないけど、ここブルターニュではそのような植物は採れないのよ、と言う。油を取るために次から次へと動物を殺すわけにはいかないでしょ、だったら動物の乳から油分を取るしか無いのね、と続ける。

 驚いたのが、最後にお世話になったオリエのうちである。基本的には菜食者である彼の家では一切乳製品を使わないのである。奥さんが菜食者ではないので家庭単位では多少の肉は消費するものの、ブルターニュ料理に欠かせないクリームの類がすべて植物性なのである。しかも有機栽培以外のものは絶対に使わない。

 かつて、彼の息子は耳の病気に悩まされていたのだそうだ。ところが、乳製品をやめた途端に良くなったと言う。子供たちの将来の健康は親の責任だろ、と彼は結んだ。東京で会った時は、他のミュージシャン仲間と酒を飲んで馬鹿騒ぎしていただけだったが、いざ膝を突き合わせて話してみると、しっかりとした考えを持った教養人であることが分かり、嬉しくなってしまった。

 環境倫理学を専門とする友人が言うように、むやみに動物の命を奪うのは好ましくないことだし、また、肉の消費量を減らすことは環境への負荷を考えても必要なことだとは思う。しかし、長い間、動物と共存し、そしてタンパク源として動物に頼ってきたブルターニュの文化を考えると、動物の権利論の正義の道は、たとえその要求が必要なものだとしても、簡単ではないなぁ、と思った。

 


フランス人と、友情と [そういえば僕は南仏に住んでいたんだっけ]

共に仕事をし、利害関係を共有するプライベートの友人が、親友ということになる。

僕の最新の論文は経済学と教育学に関するものだ。フランスの予算組織法(LOLF)の骨格をなしている指標群についての論考で、大学の業績評価の中でこれらの指標群がどのように運用され予算が決定されるのかを解説している。何故、文学研究者の僕にそんな論文が書けたのかというと、オリビエ・ボワローという大専門家の友人が手取り足取り教えてくれたからである。

社会科学系の業績が欲しいなぁ、と思っていたところ、文学研究者が書く社会科学っぽい論文どころか、本格的な社会科学の論文が出来てしまった。それもそのはず、実質的にはオリビエがいて、僕は彼に教わった通りに書いただけなのだから。

そのオリビエを僕に紹介してくれたのが、盟友ジャン=フィリップである。「ジャン=フィリップの友人だから」という理由だけで、オリビエは何から何まで詳しく教えてくれた。そして彼から貰った情報は、日本でそれを専門に研究している先生から見ても十分に興味深いものであるらしい。とある大学より、この内容に関して論文を書くようにとの依頼が来たのだから。

話は変わるが、我々の一味でもありNHKのフランス語講座でお馴染みのパトリスは、日本の文化には殆ど興味がないのだと言う。そんな彼が日本に住み着いたのは日本人との友人との友情に感銘したからなのだそうだ。「彼らはね、一回信頼関係が出来ると、絶対に裏切らないんだよ」とパトリスは言う。

同様に、フランス人は概して友達になるのは難しいが、一回友達になると極めて濃い関係を築くことが出来る、と僕は感じる。

パーティなどで楽しくおしゃべりする程度の知り合いであるなら、ちょっとした愛嬌さえあれば容易く作ることができるだろう。ましてや可愛らしい女性であれば、ナンパ目的の男どもがわんさと群がる。ただ、それだけで友だちかというと...まぁ、それだけの友だちと言えばそうかも知れないが。問題は、その先、と思う。

フランスから帰ったばかりで仕事探しに行き詰まっていた頃、在日フランス大使館に問い合わせてみれば、とフランス人の友人にアドバイスを受けたことがある。が、官庁の強いフランスならともかく日本ではそう簡単にことは進まない。実際、大使館に勤める知人は「もし興味深い仕事の情報があったら日本人職員の大半はみんな退職してそっちの仕事に移るだろう」と言っていた。

そんな話をある時、ジャン=フィリップにした時のこと、「自分はしっかり仕事がありながら、別の仕事の口を友達に紹介しないで自分で取ってしまうなんてやつは友達なんかじゃない!」と怒り出してしまった。いや、彼女は何もそんなつもりで言ったんじゃない、と弁明しようとするも「そんな不愉快なやつは話題に出すな」と一向に聞く耳を持たない。彼はここまで怒るともうつけるクスリがない。

実のところ、ジャン=フィリップと一緒にいる時は、彼の専門の経済学の話は殆ど出ない。飲んだくれながら、馬鹿な話ばかりしている。何か経済の質問をしても彼自身は殆ど答えない。ただ後で、こんな論文があるよ、と教えてくれたり、オリビエのような友人を紹介してくれたりする。

ジャン=フィリップにしたところでオリビエにしたところで、公の肩書きを持っている以上、こちらが身分を明らかにして取材を申し込めば、会って話はしてくれるだろう。ただ、そういう公の立場の人間に質問して返ってくる回答と、友人として得られる情報ではまったく質が異なるのだ。一緒に飲んだくれて馬鹿な話を出来る仲じゃないと入ってこない情報があるということだ。

つまりフランスとは、一定の友情関係が築けなければまともにビジネスが進んではいかない国だとも言える。

オリビエもジャン=フィリップも、それからパトリスも、同じ組織に勤めているわけではないので同僚ではない。でも、貴重なビジネスパートナーであるし、何よりも大切な友人なのである。

ただ、ジャン=フィリップは好き嫌いが激しくて、一回ダメになったら取りつく島もない。まぁ、僕もそうだから人のことは言えないんだけど。

2人のジャック [そういえば僕は南仏に住んでいたんだっけ]

僕が南仏エクスに住んでいた頃、ジャックという名の友人が2人いた。2人の共通点は名前だけでなく、彼らの奥さんは揃って日本人だった。友人とは言っても僕より結構年上で、にもかかわらず、2人ともtutoyer(対等な言葉遣い。フランスでは年齢にこだわらず、よくある)の間柄であった。

エクス滞在時の最後のへんはばたばたしていて、お世話になった人にろくに挨拶も出来ずに帰ってきてしまった。とにかくフランスに住んでいたときは、果たして博士号が取れるのかという不安、そして博士論文が仕上がるまで貯金が足りるのかという不安に常に曝されていたので、最後のあたりは混乱していてすっかり不義理をしてしまったのである。

そのストレスから、時として過剰に慌ててしまう僕を、2人のジャックはそれでも暖かく見守ってくれていたように思う。少なくとも、僕の方では随分と精神的に助かっていた。

一人の目のジャックさんが亡くなったのは二年くらい前のことだ。悲しくはあったが、なにぶん随分と高齢だったし、闘病生活を送っていたのは知っていたので、心のどこかで彼の死を静かに受け止めていた部分があったように思う。だが、最後に会って世話になった礼を言い、ビールの一杯くらいは奢らせてもらいたかったな、という気持ちに駆られたものだ。

この夏の終わりに再びエクスを訪れて、2人目のジャックさんの死を知る。4月のことだったと言う。享年57歳。あまりに若すぎる死だ。言葉を失う。

エクスに住んでいた最後の時期は、ちょっとしたいざこざから彼の奥さんと娘さんとはぎくしゃくしてしまっていて、会う機会もそれほどなかったように思う。だが、彼らへの感謝の念は常に感じていたし、ジャックさんの優しさは決して忘れることができない。

奥さんは辛いだろうと思う。異国の地に生きる彼女にとって、ジャックさんはあまりに素晴らしく優しい夫だったからだ。

こんなことになる前に、是非、ビールに一杯でも奢らせてもらいたかった。しかし、まさかこんなに早く逝くとは思わなかったのだ。
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肉食とワイン(追記有り) [そういえば僕は南仏に住んでいたんだっけ]

何故か、今、フランスにいる。

カテゴリー名が「そういえば僕は南仏にすんでいたんだっけ」にもかかわらず、なかなか南仏の記事がなかった気がするが、今回は南仏を満喫してきたので、そのうち写真付きでアップしようと思う。

ところで、この写真はパリ。

このところ、大量に肉を喰っている。なんだか一年分くらいは喰いだめしたくらいの勢いで喰っている。マクドナルドなんてのも久し振りに食べたし。

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おかげで体がちょっとキツい!

だがしかし、体がキツい本当の理由は、肉というよりはワイン。昼飯だというのに、がぶがぶ飲んでいる。午後、仕事があるというのに飲んでいる。それでまた、夕飯でもがぶがぶ飲むのだ。

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今日は、あんまり飲まないように心がけます。

追記

今日はようやく「野菜のパスタ」なんてものに辿りつけました。僕の前に座っていた女性2人はがっつり肉を食べていたけど。

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ところでフランスにはタバスコがない。あるのかも知れないけど、お目にかかったことがない。代わりにオリーヴオイルに唐辛子等をつけ込んだものを使う。

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ジダンの逆鱗 [そういえば僕は南仏に住んでいたんだっけ]


人に対して、言って良いことといけないことがある。

この前、お馴染み私の悪友パトリスとツイン・ハーディーガーディーのバンド、ホムンクルス(http://www012.upp.so-net.ne.jp/mahya/Homunculus.html)の取材に行ったときのこと、フランスにおけるアラブ人差別の話になった。

ホムンクルスの牧野さんから「フランスでも差別はあるんですか?」と聞かれたのが発端だったと思う。

「ワールドカップドイツ大会決勝で頭突きを披露したジダンもね、今でもいろいろ差別を受けているらしいよ」、と僕が話し始めたところ、「ジダンの件は単なるアラブ差別というよりもっと複雑なんだよ」、とパトリスが話を継いだ。

ジダンがアルジェリア出身だということはよく知られているが、実は彼はアラブ人(というのは何かも実は曖昧なのだが)ではなく、北アフリカの少数民族であるベルベル人なのだ。(僕が日本語講師として働いていた南仏プロヴァス第一大学にはベルベル語の講座もあった。)で、彼らはアルジェリアで多数派のアラブ人から差別を受けており、そこから逃げるために彼の家族はフランスに逃げてきたと言うのだ。

つまり、彼に対する差別は単なるフランスにおけるアラブ差別というのだけでなく、二重化しているということになる。

「あの決勝戦で、ジダンは例のイタリア人に選手に、アラブ世界では極めて屈辱的とされる暴言を浴びせられて激高したと言われているだろう。彼がその前に暴力沙汰を起こして退場処分になった試合を思い出してみな。ワールドカップフランス大会の時のサウジアラビア戦だったろ。つまり、彼の退場劇は二つともアラブと密接な繋がりを持っているということなんだ。」

と、パトリスは解説する。

なお、ドイツ大会の後、日本のマスコミにはジダンがインタヴューで「何よりもまず、自分は男だ。だから立ち向かった」と言ったと報道された。しかしそれは完全な誤訳である。彼は「僕だって人間だよ。だからつい反応しちゃったんだ」と言ったのである。

詳しくはこの過去の記事を参照のこと:
http://kuroki.blog.so-net.ne.jp/2006-07-20

確かに、暴力は絶対に許されることではない。しかし、残念なことに僕らは神ではない。

人に対して、言って良いことといけないことがある、人の逆鱗には触れてはいけないのだ、と思う。


南仏イスラーム事情 [そういえば僕は南仏に住んでいたんだっけ]

フランス通を標榜する人の本を読んだ。あまりの皮相なフランス理解に愕然とする。

フランスのイスラーム教徒に関して「マホメットの教えには固執し、考え方や生活様式を変えるつもりはないので、同化することは難しい」との記述がある。読んだ瞬間、脳が沸騰した。

僕にはイスラーム文化圏の友人もいるが、彼らがフランスに同化していないなどあり得ない。フランス語を上手く話せなかった第一世代ならいざ知らず、完璧なフランス語を繰る現在の世代は確実にフランス文化の一部になっている。だいたい現代フランスの英雄、ジダンの出身地はどこだと思っているのだろうか?北アフリカ、アルジェリアではないか!!

確かにイスラーム文化圏である北アフリカからの移民が社会問題となることは多いが、その問題の主要な原因は確実に貧困だろう。そこに宗教がどのように絡んでいるか、あるいはいないかは、簡単に断言できる問題ではないのだ。だいたい、フランス文化がカトリックに基づいていることは認めるにせよ、それ以外の宗教は同化が難しいというのなら、ユダヤ教徒はどうなるのか?あるいは大量のアルメニア系フランス人が通うアルメニア正教会の存在はどうなるのか?

南仏のエクスの大学の同僚にラエドというパレスチナ人がいた。故郷のラマラには帰りたいが帰れない、と言っていたので、おそらく亡命の身の上だったのだろう。そもそもパレスチナのパスポートなどないも同然である。そのラエドからある日、デモに来い、と誘われたことがある。彼が実行委員の一員となって、イスラエルの侵攻に反対する大規模なデモを企画していると言うのだ。

デモ隊は、観光地としても有名なマルセイユの旧港(ヴュー・ポール)に集まっていた。まずは殉教者への黙祷から始まる。気がつくと、やはり亡命申請をしている共産主義者のトルコ人バイラムが横にいて「気をつけろ、トモオキ、オレもこのデモには賛同するけれど、この中には過激な原理主義者も混じっているんだ」と囁く。(トルコでは共産主義は違法)

歩きながら、日本人女性研究者の友人に、とある女性を紹介された。ラエドを紹介してくれたその日本人の友人によれば、エクスの大学に在籍するパレスチナ人教授の奥さんだと言う。この教授、何とアメリカのコロンビア大学の比較文学研究者として名高いパレスチナ人学者エドワード・サイードの親友だとかで、何でもサイードは生前時々お忍びでエクスに遊びに来ていたのだそうだ。チュニジアの歴史を研究しているという僕の友人はその奥さんに随分気に入られているのだと言う。

ラエドは先導するトラックの荷台に乗り、雄叫びを上げている。

すると突然、ある若者の集団が何やら叫び出した。すると、それまで穏やかな笑顔をたたえ僕らの傍を歩いていたそのパレスチナのマダムが、鬼の形相になり、駆け出していく。

聞くところによると、その若者たちはユダヤ人に対する差別的文句を叫び始めたという。彼女は言う、「私達が反対しているのは現在のイスラエル政権であり、その軍事的政策だ。決してユダヤ人に敵対しているわけではない。こういうデモだからいろんな人が来るのは避けられない。でも、ああいう差別発言を許してしまえば私達が差別主義者だと思われる。何としてでも阻止しなければならない。私達は決して反ユダヤ主義者でもなければ、差別主義者でもないのだから。」

フランスに住むイスラーム系知識人の矜持だと思う。

翌日、ユダヤ系カトリックの出自を持つ言語学者フランソワーズ・ドウェ氏に、反イスラエルデモに行ったことを告げた。「あら、それは良いことをしたわね」と、僕の大切な共同研究者である彼女は言う。

これが僕の知っているフランスだ。

ラエド、バイラム、長い間会っていないけど、僕は君らのことを決して忘れない。


ニ外の危機 [そういえば僕は南仏に住んでいたんだっけ]

 フランスは留学生の受入れ大国である。私も外国人としてフランスに住んでいたので、自然と彼らと仲良くなった。で、気付いたことは、第3諸国には日本に興味を持つ人が少なくない、ということだった。つまり西洋以外の国で最も早く西欧文化を受容し、植民地にならなかった国としてである。彼らはフランスに留学に来るくらいだから、当然フランスの文化に憧れを抱いているのだが、と同時に植民地支配をしたフランスを憎んでもいるのだ。実際、トルコ人の友人には、どうやって日本が西洋文化を学んで来たかについて度々意見を求められた。共産主義者を標榜し、国外退去の憂き目にあっているその友人にとってはトルコをいかに現代国家にするか、というのはとても大事な問題なのだ。そんな友人の影響もあり、また大学で日本語を教えていたということもあり、これについてはいろいろと考えさせられた。

 では、何で日本が西洋文化をいち早く導入し出来たのであろうか?それは、日本人の優れた外国語能力のおかげではないかだろうか?。

 概して、日本人は外国語学習が苦手だと言われる。「中高6年間英語をやったのにしゃべれるようにならない」とはよく言われることだし、実際そうだ。対して、中国からフランスに学びに来た大学生は英米圏への留学経験もないのに、ドイツ人と英語で立派にコミュニケーションをとっていた。「すごいね」と言うと「中国の大学で英語を専攻していたので当たり前です」と胸を張る。この点から言えば、確かに日本人は情けない。しかし外国語能力は何も話す能力だけではない。「読む・書く・話す」の3つの総合的な能力なのだ。この中で、日本人は翻訳能力に関しては抜群の能力を持っているのではないだろうか?

 きっかけはフランスの北アフリカにおける植民地政策を研究している日本人の歴史学者の友人と話していた時のことであった。その友人はヴァカンスを利用してチュニジアに行って来た、というのである。それで土産話を聞かせてくれたというわけである。研究者の性癖としてどこへ行っても本屋が気になって、ふと立ち寄ったと言うのだ。そこで彼はある重大なことに気がついた。「すごいんですよ、黒木さん、本がですね、アラビア語のコーナーとフランス語のコーナーにきっちりと分けられているんですよ。」「まぁ、チュニジアはフランスの植民地だったんだから当然なんじゃないの?」「それはそうなんですけどね、問題はジャンルなんです。神学と法学の本はアラビア語なんですけどね、それ以外のね、自然科学とか、経済学とか政治学などの社会科学系はフランス語なんですよ。」イスラームの国であるチュニジアで神学の本がアラビア語なのは当然だろう。またイスラーム法の重要性を考えれば、法学の本もアラビア語なのも頷ける。しかし、それ以外の学芸に関する本がフランス語オンリーで、しかも翻訳がないというのには、少々驚いたのだと言う。つまり、現代国家を形成するのに必要な諸学を学ぶためには、まず、フランス語を身につけなければならない、ということだ。まさに旧植民地の宿命だろう。

 で、我々が驚いたのは、実は、日本と比較してしまったからである。日本の本屋には実に多種多様な翻訳書が並んでいる。おかげで経済学や物理学を学びたい大学一年生が、外国語の原典を繰る前に、日本語の教科書で学ぶことができるのだ。もちろん大学院に進学し専門的に勉強したい学生は当然外国語の文献を読まねばなるまいが、初級の段階を日本語で学べるのは大きい。

 また我々は、英語で書かれたものだけでなく、フランス語で書かれたものも、ドイツ語で書かれたものも、中国語の文献も、ロシア語で書かれたものだって、翻訳で読むことができるのだ。この翻訳書の豊富ぶりは実はフランスと比べても引けを取らない。それどころか遥かに凌駕する。日本にはそれぞれの国の専門家が競うあうように翻訳書を世に送る。かくいう私は、日本語で読んだイギリスやアメリカやドイツの研究書についていろいろ話していたら、フランス人の偉い先生に「なんでそんなにいろいろ知っているの?」と驚かれたことがある。もちろんこれは私の手柄ではなく、それぞれの翻訳者の手柄であり、日本の外国語能力の手柄である。

 つまり日本語は翻訳にとても強いのだ。あるいは日本人は外国の文化を吸収するのが極めて得意なのだ。これは古来より中国や朝鮮半島より多くを学んで来た我々の歴史に負うところも大きいであろう。その吸収力は明治以降西洋文化を受容する際にも十分発揮されたのである。

 私がフランスの大学で日本語を教えていて気付いたことに、これには日本語の特徴が大きく関係しているのではないか、ということがある。日本語は極めて柔軟で高度の論理展開能力を誇る言葉なのだ。よく「日本語が曖昧で感情的な言語である」という人がいるが、これはもちろん大嘘だ。でなかったら、江戸までは中国からの、明治以降は西洋の文献を大量に訳し咀嚼しては来れなかったであろう。

 しかし、私が今危惧しているのは、日本のこの優れた翻訳文化が危機に瀕していることだ。つまり大学における第二外国語の廃止、という事態である。今や、外国語教育は英語だけに絞られようとしている。これは情報源がアメリカだけに限られて、アメリカに良いように振り回される危険を孕む。いろいろな地域に対して外国語能力を発揮して来たことが日本の長所であった筈なのにである。日本が独立を保持したいのであるならば、アメリカと良好な関係を保つこともさることながら、情報網に関しては独自のものを世界中に張り巡らせておく必要がある。そのためにも、今こそ、我々は日本の優れた伝統である深い外国語能力に基づいた文化とそれを支える日本語の特性について考える必要があるではないだろうか。

 では、日本語のどこか優れているのだろうか?という問に関してはまた今度。


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