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助川幸逸郎著、『謎の村上春樹』を読んで [文学について]

 Webでの連載がいまいちだったのであまり期待していなかったのだが、予想に反してとても面白かった。助川大先生申しわけありません。

 いろいろ議論は尽きないが、特に気になった論点を一つだけ採上げてみよう。

 助川氏は「純文学」を、夏目漱石などの「本格小説」や田山花袋などの「私小説」に分類した上で、村上春樹の小説をそのような従来のタイプには属さない「体験型アミューズメント」型の作品であると見なす。つまり、村上春樹はもはや純文学ではなく、むしろ娯楽的な側面の強い作家ということになるだろう。

 見事な分析である。しかし、私は「体験型アミューズメント」型と見なすことのできる詩人を思い起こす。19世紀末フランスの詩人ステファヌ・マラルメである。

 マラルメの詩は難解であるとされる。それは読み手の解釈次第で様々な読みが出来るように、重層的に意味が織り込まれているからなのである。そこで文言の奥底に潜んでいると思われる作者の意図を読み解くという行為はほとんど意味をなさない。何故なら、詩という文学の場で読者に自由な読みを展開させていくことこそがマラルメの意図だからである。

 となれば、マラルメも村上春樹と同じ「体験型アミューズメント」型の作家ということになろう。

 しかし文学史の世界でマラルメは<純粋>を追求した詩人として知られている。それは20世紀に入って<純粋詩>と呼ばれたり、あるいは、特に弟子のヴァレリーによって<絶対詩>と呼ばれることとなった。また、アンドレ・ジードの<純粋小説>も当然その延長にあると言って良いだろう。

 つまり、村上春樹は、<純文学>の枠に当てはめることのできない「体験型アミューズメント」であるところに特徴がある、と助川氏は分析しているわけだが、その<純文学>の源流には、実は「体験型アミューズメント」型の詩がある、ということだ。


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