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ニ外の危機 [そういえば僕は南仏に住んでいたんだっけ]

 フランスは留学生の受入れ大国である。私も外国人としてフランスに住んでいたので、自然と彼らと仲良くなった。で、気付いたことは、第3諸国には日本に興味を持つ人が少なくない、ということだった。つまり西洋以外の国で最も早く西欧文化を受容し、植民地にならなかった国としてである。彼らはフランスに留学に来るくらいだから、当然フランスの文化に憧れを抱いているのだが、と同時に植民地支配をしたフランスを憎んでもいるのだ。実際、トルコ人の友人には、どうやって日本が西洋文化を学んで来たかについて度々意見を求められた。共産主義者を標榜し、国外退去の憂き目にあっているその友人にとってはトルコをいかに現代国家にするか、というのはとても大事な問題なのだ。そんな友人の影響もあり、また大学で日本語を教えていたということもあり、これについてはいろいろと考えさせられた。

 では、何で日本が西洋文化をいち早く導入し出来たのであろうか?それは、日本人の優れた外国語能力のおかげではないかだろうか?。

 概して、日本人は外国語学習が苦手だと言われる。「中高6年間英語をやったのにしゃべれるようにならない」とはよく言われることだし、実際そうだ。対して、中国からフランスに学びに来た大学生は英米圏への留学経験もないのに、ドイツ人と英語で立派にコミュニケーションをとっていた。「すごいね」と言うと「中国の大学で英語を専攻していたので当たり前です」と胸を張る。この点から言えば、確かに日本人は情けない。しかし外国語能力は何も話す能力だけではない。「読む・書く・話す」の3つの総合的な能力なのだ。この中で、日本人は翻訳能力に関しては抜群の能力を持っているのではないだろうか?

 きっかけはフランスの北アフリカにおける植民地政策を研究している日本人の歴史学者の友人と話していた時のことであった。その友人はヴァカンスを利用してチュニジアに行って来た、というのである。それで土産話を聞かせてくれたというわけである。研究者の性癖としてどこへ行っても本屋が気になって、ふと立ち寄ったと言うのだ。そこで彼はある重大なことに気がついた。「すごいんですよ、黒木さん、本がですね、アラビア語のコーナーとフランス語のコーナーにきっちりと分けられているんですよ。」「まぁ、チュニジアはフランスの植民地だったんだから当然なんじゃないの?」「それはそうなんですけどね、問題はジャンルなんです。神学と法学の本はアラビア語なんですけどね、それ以外のね、自然科学とか、経済学とか政治学などの社会科学系はフランス語なんですよ。」イスラームの国であるチュニジアで神学の本がアラビア語なのは当然だろう。またイスラーム法の重要性を考えれば、法学の本もアラビア語なのも頷ける。しかし、それ以外の学芸に関する本がフランス語オンリーで、しかも翻訳がないというのには、少々驚いたのだと言う。つまり、現代国家を形成するのに必要な諸学を学ぶためには、まず、フランス語を身につけなければならない、ということだ。まさに旧植民地の宿命だろう。

 で、我々が驚いたのは、実は、日本と比較してしまったからである。日本の本屋には実に多種多様な翻訳書が並んでいる。おかげで経済学や物理学を学びたい大学一年生が、外国語の原典を繰る前に、日本語の教科書で学ぶことができるのだ。もちろん大学院に進学し専門的に勉強したい学生は当然外国語の文献を読まねばなるまいが、初級の段階を日本語で学べるのは大きい。

 また我々は、英語で書かれたものだけでなく、フランス語で書かれたものも、ドイツ語で書かれたものも、中国語の文献も、ロシア語で書かれたものだって、翻訳で読むことができるのだ。この翻訳書の豊富ぶりは実はフランスと比べても引けを取らない。それどころか遥かに凌駕する。日本にはそれぞれの国の専門家が競うあうように翻訳書を世に送る。かくいう私は、日本語で読んだイギリスやアメリカやドイツの研究書についていろいろ話していたら、フランス人の偉い先生に「なんでそんなにいろいろ知っているの?」と驚かれたことがある。もちろんこれは私の手柄ではなく、それぞれの翻訳者の手柄であり、日本の外国語能力の手柄である。

 つまり日本語は翻訳にとても強いのだ。あるいは日本人は外国の文化を吸収するのが極めて得意なのだ。これは古来より中国や朝鮮半島より多くを学んで来た我々の歴史に負うところも大きいであろう。その吸収力は明治以降西洋文化を受容する際にも十分発揮されたのである。

 私がフランスの大学で日本語を教えていて気付いたことに、これには日本語の特徴が大きく関係しているのではないか、ということがある。日本語は極めて柔軟で高度の論理展開能力を誇る言葉なのだ。よく「日本語が曖昧で感情的な言語である」という人がいるが、これはもちろん大嘘だ。でなかったら、江戸までは中国からの、明治以降は西洋の文献を大量に訳し咀嚼しては来れなかったであろう。

 しかし、私が今危惧しているのは、日本のこの優れた翻訳文化が危機に瀕していることだ。つまり大学における第二外国語の廃止、という事態である。今や、外国語教育は英語だけに絞られようとしている。これは情報源がアメリカだけに限られて、アメリカに良いように振り回される危険を孕む。いろいろな地域に対して外国語能力を発揮して来たことが日本の長所であった筈なのにである。日本が独立を保持したいのであるならば、アメリカと良好な関係を保つこともさることながら、情報網に関しては独自のものを世界中に張り巡らせておく必要がある。そのためにも、今こそ、我々は日本の優れた伝統である深い外国語能力に基づいた文化とそれを支える日本語の特性について考える必要があるではないだろうか。

 では、日本語のどこか優れているのだろうか?という問に関してはまた今度。


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コメント 2

yokonozo

>私が今危惧しているのは、日本のこの優れた翻訳文化が危機に瀕していることだ。
>つまり大学における第二外国語の廃止、という事態である。

これ、ワタシも耳にしたときおどろきました。
英語だけでやっていくつもりなのか、と。
いや、英語ではなく「アメリカ語」なんですよね、日本の場合。
by yokonozo (2007-07-02 14:12) 

黒木

ネオリベって、経済的には非常に効率が悪いし、今の日本政府のやっていることは日本の弱体化を目指しているとしか見えないんですよ。
by 黒木 (2007-07-03 09:24) 

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