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クリストフ・シャルルの講演会 [文学について]

クリストフ・シャルルが来日、「『大学の歴史』の著者がボードレールの捕らえた「モデルニテ」を大革命から現在にいたるまでの歴史のパースペクティヴのなかで語り直すまれな機会です」というので、行ってきた。


ボードレールの大専門家であった阿部良雄の弟子である私にとっては、シャルル氏のモデルニテの捉え方がいまいち安易すぎるように思えた。まぁ、阿部良雄に比肩する議論を期待するのは、所詮、無理、と言うことか、と思う。

では、どこか安易なのかと言うと、古代からモダンへの進化=発展、という線的な歴史の捉え方である。「モデルニテ」の問題系はそんなに単純ではなかろう、と。

だが、それはひとまず横に置いておいて、それ以上に疑問に感じることがあった。

モデルニテの歴史を、西洋それもフランスのケースだけを俎上に上げて論じているに過ぎない、という問題である。

モデルニテは明らかに、西洋で発生したものの考え方である。そこには「過去」からモダンという流れにおいて、確かな連続性があるだろう。しかし日本におけるモデルニテの軌跡は、過去との断絶において成り立っているということにことに関する意識がシャルル氏においてはまったく希薄だったのである。

西洋においても過去の伝統からの断絶から、モデルニテが生じたのは事実だろう。しかし、あくまでも西洋文化から西洋文化への発展であったわけである。対して、日本においてはそれまでの自国の文化に対して、西洋文化という異物を移植するという形で、モデルニテが成立したことに留意しなければならない。

何も、日本の伝統に基づいていないから、日本のモデルニテの受容は不可能だと言っているわけではない。ただし、西洋で発展したモデルニテを西洋の価値観の延長線上でしか理解しようとしないのであれば、それは普遍性を獲得するにはほど遠い、と言わざるを得ない。

そして、何よりも深刻なのは、シャルル氏が自身の立論の限界を意識していないことだ。つまり西洋以外での領域での議論の有効性についての議論の可能性をまったく感じていないことが最大の問題なのである。問題があること自体意識していないのならば、その問題を解くにはあまりにほど遠い。

西洋出身の知識人の限界が、その思考のフィールドを西洋以外に及ぼせないことにある、という例がまたもや繰り返されてしまった感は否めない。

まぁ、西洋史というフィールドに限って言えば、有益な議論であったのは確かだ。しかし如何せん、世界史という視点ではないと思う。

見直さずに投稿。

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