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友情と損得勘定/馮驩に倣って [文学について]

とある人に「冷たい」と言われる。確かにその人にとって、僕が大層冷たい人間であることは間違っていない。基本的に僕は人間関係を損得勘定で考えるので。

ただ、ものの見方には両面があり、ある種の冷たさはある種の暖かさと裏返しである、とも思う。

例えば、フランス人は個人主義であると言われ、取っ付きにくくなかなか友達にはなれないので大変である。ただ、一回友達になってしまうと極めて情の深い人がいるのも事実なのだ。

パトリスは現在フランスで上映予定の太宰治に関するドキュメタリー映画の撮影を手伝っているのだが、空気を読まず好き勝手やって自殺で果てた太宰は、個人主義的性向を持つフランスで結構人気が出るのではないか、と言う。

僕も若い頃は随分太宰が好きで読んだよ、と言うと、「まぁ、トモオキは日本人社会で浮いているところがあるから、その意味で太宰に似ているよね」と言われた。口惜しくはあるが、はずれてはいないだろう。

僕のこの性向は、今まで自分が育ってきた環境の所為もあるが、高校時代に史記を愛読していたことも大きいように思われる。

損得勘定に関して、圧倒的な影響を与えたのは以下に引用する孟嘗君と馮驩の逸話である。

先に斉王が讒言によって孟嘗君をやめさせたとき、食客たちは皆かれのもとを去ってしまった。後に再び復帰したとき、馮驩が迎えたが、まだ屋敷に着かぬうちに、孟嘗君はため息をついて嘆いた、「文は食客が好きでした。客のあつかいには、はばかりながら手落ちはなかった。食客が三千人あったのは、先生もご承知のとおりです。ところが私が宰相を罷免されたと聞くや客たちは皆そむいて去り、誰も私のことを心配してくれなかった。先生のご尽力で現在、もとの位に復帰することができた。食客たちは、どの面さげて私の前に出て来ることができよう。おめおめと来る者がいたら、必ずその顔に唾してやっつけてやろう」と。馮驩は馬の手綱を結んで、おりて一礼した。孟嘗君も車からおりて答礼して言った、「先生、客たちのために謝りなさるのですか」と。馮驩「食客のためではございません。殿の言葉がちがっているからです。そもそもものには必至のなり行き、ことには当然の理ということがあるのをご存知ですか」と。孟嘗君「私は愚かで何の意味がわからぬが」。「生命ある者は必ず死ぬ、それは物事の必至。富貴になれば士が多く集まり、貧賤になれば友がとぼしいのは事の当然です。あの朝がた市場へ出かける人々の様子を見たことはありませんか。夜明けには肩をそばだてて先を争って門口へ入ります。夕暮れにはさっさと市場を通り過ぎて、振り返って見ようともしません。かれらが朝が好きで、暮れがきらいだからというのではありません。夕暮れの市場には欲しい物が何もないからです。さて殿が宰相の位を罷免され、賓客は皆去りました。だからといってかれらを怨み、今後賓客の来る路を絶つ必要もありますまい。何とぞ殿には、客たちをもとのように待遇なさいますようにお願いいたします」と。孟嘗君は再拝した。「つつしんで命に従おう。先生の言葉を伺ったからには、おっしゃる通りにいたそう」と。(「孟嘗君列伝」, 水沢利忠訳, 明治書院, 1993, pp.48-9)


残念なことに『史記』は殆どフランス語訳に訳されていない。パトリス、ジャン=フィリップやフランソワーズがこの一節を読んだら何と言うか、非常に興味がある。

その仏語訳は確実にフランソワーズと共に計画中の比較修辞学研究の重要な一ページとなるだろう。


人間の系譜学 [文学について]

マルクス研究者の田上孝一氏、源氏物語研究者の助川幸逸郎氏と私の3
人が共編者として、総勢11人の執筆者とともに書いた本がようやく出
版にこぎ着けました。

関係者の皆様には感謝の限りです。

是非、皆様の手に取って頂き、本棚の片隅にでも置いておいて頂ければ
これに勝る喜びはありません。

http://www.press.tokai.ac.jp/bookdetail.jsp?isbn_code=ISBN978-4-486-01800-1

http://www.amazon.co.jp/dp/4486018001/

http://www.7andy.jp/books/detail/-/accd/32162260

私めのカミュ/サルトル論@Web Tokai [文学について]

 片山同志、千金良同志、申し訳ない。それぞれに素晴らしいヘーゲル論と三島由紀夫論をweb TOKAIに掲載されたのは知っておりました。もちろん紹介記事を書く気はまんまんだったのですが、2月と3月は(決して名前を明かしてはいけないと言われている)とある偉い人より密命が下り、それをこなすので大変忙しく時間が…ぶつぶつ…

http://www.press.tokai.ac.jp/webtokai/Ningen_07.pdf
http://www.press.tokai.ac.jp/webtokai/Ningen_08.pdf

 そして5月のweb TOKAIは私めのサルトル/カミュ論争における人間観であります。

http://www.press.tokai.ac.jp/webtokai/Ningen_09.pdf

 自分で自分の文章を紹介するのはなんとなくこそばゆいし、内容に関しては「どうか読んで下さい」としか言えないので、実はここではあまり書くことがない。

 ただ一つだけ明かしておくと、共編者の田上さんから「人間観の共著をやらないか?」と誘われた時、私が書きたいと思ったのは私の博論のテーマであるマラルメやボードレールではなく、サルトル/カミュ論争であった。このテーマに関しては決して専門であるとは言えず、しかもサルトルにもカミュにもそれぞれに素晴らしい専門家がいると分かっているのに、敢えて選んだのは、実は、これ、私の卒論の題材だったのである。

 研究対象に対する過度の思い入れを捨て、距離を取り、更に同時代の視点から読んでいく、という手法のきっかけを与えてくれたのがまさにこの卒論だったし、何より指導教官であった田中先生へのオマージュとしてこの論考を書きたかったのである。

 私自身が専門以外の作家を扱うということで、仏文関係の執筆者には「自分の専門以外の作家について書く」という方針を押し付けることとなってしまった。いろいろと偉そうな言い訳はしてみたが、結局自分のわがままにつき合わせただけの話だ。

 ゾラ論を書いてくれた松浦さん、ロブ=グリエ論を書いてくれた中野さん、私のわがままにつき合ってくれて本当にありがとう。


ぼくらはみんなボードレールの子供である [文学について]

『ぼくらはみんなボードレールの子供である』という論考を書きたいと思った。

とは言うものの、ボードレールを始めとしたフランス詩に対する論考ではない。

ロックについて、それもヨーロッパの前衛ロックについて書きたいと思ったのだ。

ボードレールはそれほど音楽を分かっていたわけではないし、またロックミュージシャンのほうだって、ボードレールを詳しく知っているというわけではないだろう。にもかかわらず、僕らはたとえそれが無意識であろうとも、みんな等しくボードレールの影響下にある、と思う。

僕にしたところで、別にロックへの影響を探ろうとしてボードレールを読み始めたわけでなかった。偶然自分の指導教官がボードレールの大専門家だっただけなのだ。

でも、確かにボードレールを始めたのは偶然だったかもしれないけれど、運命的な必然でもあったかもしれないとも思うのだ。






松浦さんのゾラ論@Web Tokai第六回 [文学について]

某大学出版局から出版予定の「モダン時代における人間観」予告連載第六弾は私の友人でもあり先輩である松浦寛氏のゾラ論である。

http://www.press.tokai.ac.jp/webtokai/Ningen_06.pdf

田上さんから「人間論の共著を出さないか」と持ちかけられ、仏文から3人立てて欲しいと言われたとき、私の頭に即座に浮かんだ作家は、ゾラ、サルトルとロブ=グリエであった。

国文学の編者の助川さんは、ボードレールの人間観などあったら面白そうですね、とおっしゃっていたが、即、却下した。何故なら、ボードレールで一章設けるとなると、阿部良雄氏に直接教えを受けたこの私が書かざるを得なくなるわけだが、その私に書く気が更々ないからである。

また、ボードレールはもとより、私が博士論文の主題にした詩人であるマラルメにおける人間観を書くというのもしんどい話である。それを書くとなれば、現在フランスでマラルメ研究の第一人者とされているベルトラン・マルシャル氏の博論に楯突くような論考を書くことは必至であり、ただでさえマラルメ研究者に嫌われているのに、これ以上傷口は拡げたくないと思うのである。

田上さんから話を持ちかけられたとき、サルトルとカミュの論争についてやりたいと思った。実は、私の卒論のテーマがサルトル/カミュ論争だったのだ。そして何よりも私のマラルメ研究はサルトルのマラルメ論から入っている。

マラルメは「神の死」を体験した詩人である。そして「人間の時代の文学」を模索したというのがベルトラン・マルシャル氏の博論のテーマである。で、サルトルはと言えば、その人間の絶頂を体現した作家であり、またその死を予感していた作家と言えよう。

そのサルトルの「人間」と言えば、「知識人」としての活動(=アンガージュマン)の中にその理想の姿を垣間みたことは良く知られている通りである。そしてマラルメと同じ時代に「知識人」として活動を開始したのがゾラなのだ。

というわけで、ゾラの章がどうしても欲しかったわけだが、なかなか執筆者探しに苦労した。意外なことにゾラの専門家というのが多くはないし、更に、このテーマで書ける人となると適当な人物が見つからなかったのである。

困った挙げ句、松浦さんに相談してみた。松浦さんはドリュ・ラ=ロシェルやベルナノスなどにおける反ユダヤ主義をテーマに研究を続けている人で、その絡みであの小林よりのり氏に「インチキ学者」呼ばわりされという大変名誉な経験をお持ちの方なのだ。最初は誰か紹介して頂こうと思っていたのだが、話していて実は松浦さんに書いて頂くのが一番早いという結論に達した。

実際、その期待を裏切らない素晴らしい論考を書いて頂いた。


グローバリゼーションの現在〜新たな公共性を求めて〜Part3 [文学について]

谷戸公民館
 シンポジウム
 グローバリゼーションの現在
  〜新たな公共性を求めて〜
         Part3
 
 国際的規模で行われる経済活動。市場原理に覆われる世界での格差、分断も指摘されています。「弱者」側から発せられる「戦争待望論」。過酷な現実へのアンチテーゼとしてのオタク・カルチャー。せめぎあう二つのナショナリズム。
 今、日本で何が起きているのかを検証し、あるべき公共性を一緒に考えたいと思います。
▼と き=2月24日日
▼ところ=谷戸公民館
▼定 員=30人(申込順)
▼報告者=小多悠(おだはるか)(予備校講師)
     鈴木泰恵(早稲田大学講師)
     助川(すけがわ)幸逸郎(こういちろう)(横浜市立大学講師)
 司 会=黒木朋興(ともおき)(上智大学講師)
▼申 込=2月4日月10時から電話で谷戸公民館へ


木島さんのスピノザ論@Web Tokai第五回 [文学について]

随分と遅れてしまったが、木島さんの記事の紹介をしておく。

http://www.press.tokai.ac.jp/webtokai/Ningen_05.pdf

スピノザは正直あまり知らなかったが、今回の木島さんの論文で勉強させてもらった。

しかしこれだけ書ける人が不遇をかこっていると知るにつけ、本当にどうにもならないものかと思う。

学術の有効利用の道というのは絶対にあると思うのだが。


名須川さんのデカルト論@Web Tokai第四回 [文学について]

某大学出版局から出版予定の「モダン時代における人間観」予告連載第四弾は名須川学氏のデカルト論である。

http://www.press.tokai.ac.jp/webtokai/Ningen_04.pdf

実は名須川さんは私の友人であり、デカルトに一章を割くつもりならと、哲学分野の編者田上さんを差し置き僕からお願いして入ってもらうことにしたのだ。

僕は長いこと音律研究をやっていて専門である19世紀を中心に見ているのだが、やはりどうしても17世紀のデカルトやメルセンヌあたりまで遡ってやらなければいけないことに気がついて、さりとて自分一人でやるにはあまりも範囲が広すぎて途方にくれていた時に、まさにデカルトの音楽論をテーマに研究している氏に出会ったのである。まさに、僕がその時知りたかったことをおそらくは世界で一番詳しく解説出来る人だった。以来、交友関係を続けている。

さて、実はこの予告編のみならず完成原稿も既に戴いているのだが、そのレベルの高さに逆に困ったことになってしまったと思っていることを白状しておきたい。このような素晴らしい論考に比べ、編者の一人である自分の論文がみすぼらしいものになってしまうのではないか、と不安に駆られたのである。

この論集、哲学の分野の執筆者にはそれぞれ専門領域について担当してもらっているが、文学の分野の執筆者には専門分野を微妙にずらして書いてもらっている。例えば、僕はマラルメを中心とした19世紀詩学が専門だが、今回担当するのはカミュ/サルトル論争だ。これは学部生向けの入門書という企画を考え、自分の専門外のことを扱うことによって、専門家の間でのみ回っているややこしい問題系を多少なりとも分かりやすく提示出来るのではないか、と考えたのである。実際、文学研究の世界とは、哲学以上にややこしい専門用語の飛び交う世界なのだ。

名須川氏には最初本当に入門的な文章のつもりで依頼したのだが、出来上がった論考を読ませて頂くと世界でも最先端をいくデカルト論に仕上がっており、しかも学部生向けの書物ということも考慮に入れた極めて丁寧な解説になっている。もちろん、哲学なのですらすらと読み解けるというわけではないが、極めて良質で良心的な論考であることは確かだ。僕自身、専門のマラルメについて執筆したところでここまでのものを書けるかどうかといった感じなのである。

やはり原典をきっちり読み込んでいる人は違うな、と感じざるを得ない。例えば、デカルトにせよヘーゲルにせよ、所謂現代思想のファンの間では「近代における諸問題の戦犯」扱いを受け、極めて安易に批評の対象になることが多い。しかし、「デカルトを超える」あるいは「ヘーゲルの過ちを正す」ことを主張する論者は全くと言って良いほど原著を精読していないと言って良い。そういう状況の中で優れた研究者による論考を読めるのは素晴らしいことだと思う。

なお、ヘーゲルに関してはやはり素晴らしい執筆者を用意しているので是非期待していてもらいたい。


斉藤さんの安野モヨコ論@Web Tokai第三回 [文学について]

現在、マルクス研究者の田上孝一氏と源氏物語研究者の助川幸逸郎氏と共編者となって、共著の計画をしている。「モダン時代における人間観」をテーマにデカルトから安野モヨコまでモダンを代表する哲学者・文学者を選び、12本の論文で一冊の本にしようという企画である。

その予告編とも言うべき連載を東海大学出版会のHPにあるwebTOKAIのコーナーで行なっている。今月は、源氏物語研究で博士号を取られた斉藤昭子氏の「安野モヨコ論」である:

「ラブ」の虚妄とその超克─安野モヨコ作品の人間像
            斉藤昭子氏(横浜市立大学特別研究員)
http://www.press.tokai.ac.jp/webtokai/Ningen_03.pdf

デカルトで始まる「モダン時代における人間観」というテーマの本で、ゾラ、田山花袋や三島などいった小説家に続き、女性漫画家で締めくくることにしたのは正解であった。しかも、古典文学研究者である斉藤さんという優秀な執筆者を得られたことも良かった。

「人間観」という論集に、現代女性の生き方を扱った論考は是非とも必要であるし、また、モダン小説の歴史を踏まえれば現在では漫画こそがその文学の正統な後継者であることは明らかであるからである。しかも、その執筆者が源氏物語という古典文学の領域で博士論文を書かれた方であるというのは、僕にとっては本当に喜ばしいことだ。

だが、実は、この企画が出たのを機会に安野モヨコの漫画『働きマン』にも少しばかり目を通してみたのだが、僕は全く好きになれなかった。共感できないのは僕が男だからかとも思っていたのだが、斉藤さんの文章を読んでどうやらそれだけでもないらしいということに気がついた。結局僕は、「消費」ということに引っかかっている。「消費の対象としての恋愛」については最近で論じられることも多いが、安野モヨコにおいては「女性の生き方」そのものの「消費」が俎上に上がっているということに斉藤さんの論考を読んで気がついた。それが故に彼女の作品が人気が高いというのもまったくもって納得出来る話なのであるが、そういった状況では僕の「非モテ」は必然であろう。しかもそのような状況はしばらくの間全く変わりそうにない。


シンポジウム/グローバリゼーションの現在/新たな公共性を求めて part2 [文学について]

谷戸公民館

シンポジウム
グローバリゼーションの現在
  新たな公共性を求めて
           part2

世界規模で行われるようになった経済活動は、私たちの暮らしにどんな影響を与えるのでしょうか。今回は、服飾、中国少数民族、ポピュラー音楽、といった視点から、世界各地で起きている事実を報告します。
市場経済至上主義が世界を均質化し、分断を生んでいるとも言われます。この時代に市民が目指すべき公共性について、一緒に考えていきましょう。
▼と き=10月21日(日)
 14時〜16時
▼ところ=谷戸公民館
▼対 象=市内在住・在勤・在学者
▼報告者=
 石田真一(古着店主・バンタンデザイン研究所講師)
 川野明正(東京理科大学准教授)
 黒木朋興(ともおき)(上智大学講師)
 司 会=助川幸逸郎(こういちろう)(横浜市立大学講師)
▼申 込=10月3日(水)午前10時から電話で谷戸公民館へ


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