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因果応報 [散文詩]

因果応報なんて嘘っぱちさ
悪いことをしてるからと言って
いずれ罰を受けるわけでもなければ
努力をしているからと言って
いずれ報いられるわけでもない
じゃぁ、なんでそんなにしゃかりきに
なって頑張っているかって?
決まってるじゃないか、
止まっていると、不安で、怖くて
仕方がないから、走り続けるしかないのさ


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コメント 4

katsura

他人の言葉で失礼します。
「光の愛好者に

眼とこころを疲らせたくないなら
君は太陽を追っても、影の中を走れ!」
(華やかな智慧/ニーチェ)
勘違いしていたら、ごめんなさい。
by katsura (2006-09-23 23:55) 

黒木

有難う御座います。
by 黒木 (2006-09-24 07:17) 

感想

インガオウホウはあると思います!
ただ今はそれが見える位置にいないのだと思います。
努力とは究極のところ、他人「のために」するものです。
つまり、自分が何かを表現するとき、他人がそれをどう感じるかを意識しているのと、していないのでは、得られる結果が変わってくるということです。
他人を見ることをやめたら、来るべき結果はめぐってこないと思います。
ひとりで走ってはいけないと思います(それは文字通り「無駄足」です)。
見えない同伴者を常に感じてください。

生意気ですみません。
by 感想 (2006-09-28 18:26) 

黒木

私がおそらくはマラルメより尊敬している文筆家に司馬遷がいます。彼は、因果応報を信じていた、というより、因果応報を信じたかった人です。彼の文章を引用します。

「孔子の弟子七十子の徒で、ただひとり顔淵は仲尼(孔子)から学問好きだと推賞された。ところがその顔回(顔淵の字)はしばしば無一文になり、ぬかくずさえ満足に食べられず、ついに早逝した。善人に対する天の報いは、一体どういうことなのか。盗蹠は日ごと罪なき民を殺し、人肉をなますにして暴虐の限りをつくし、数千の徒党をくんで天下を横行した。それがなんと天寿を全うしたのは、一体どんな善徳を積んだ結果なんだろう。[...] わたしはなんとも思い惑う。もしかして、いわゆる天道は是なのであろうか、非なのであろうかと。」

今の私は、いつか報われるだろうとは思ってはいません。すくなくともそう思った瞬間に前に進めなくなってしまうからです。そうではなく、とにかく、目の前のことを一つ一つこなしていく以外に道はないと考えます。

ありがとう
by 黒木 (2006-09-28 22:52) 

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